特別インタビュー ー 『ガロ』の時代 ー

『ガロ』元編集者・高野慎三氏に聞く

月刊漫画『ガロ』1966年3月号
青林堂刊 ©水木プロダクション
「水木しげるの世界 ゲゲゲの展覧会」では水木しげる氏が貸本漫画から週刊漫画雑誌へと活躍の場を移す時期に注目し、その過渡期に作品の発表の場とした伝説的な漫画雑誌『ガロ』に焦点を当てたコーナーを設けています。月刊漫画『ガロ』は1964年9月に青林堂から創刊されましたが、今回の展覧会では創刊号から57号までとその後の数号、また、その前身である『忍法秘話』も全号出品します。貸本漫画と週刊少年漫画雑誌、それに『ガロ』を併せて展示することで、当時の漫画出版の概況を紹介しています。
1960年代後半に『ガロ』の編集に携わり、貸本漫画の研究者でもある高野慎三氏に、創刊時の水木しげる氏や白土三平氏のことから、第二世代の林静一氏たちの登場までのお話を伺いました。

『ガロ』との出会い―青林堂入社の頃

― 高野さんは青林堂にはいつからお勤めだったんでしょうか。
1966年の9月です。8月31日までよそで勤めていました。それまで『日本読書新聞』にいたんです。青林堂には71年の12月までだから5年とちょっとです。そんなに長くいたんですね。あまり長くいた気がしないんだけども。
― 何の号からでしょう?
何の号って・・・。えーと、66年の11月号からです。
― 何の号ってことはないですよね。(笑)カムイの号ですよね※
(※『ガロ』はその初期、誌面の半分を白土三平の「カムイ伝」が占めていた。)
水木さんの鬼太郎が表紙の号は1966年3月号で、講談社児童漫画賞を受賞したときのですね。このときはまだ青林堂にいなくて、その授賞式には『日本読書新聞』の取材で出席しましたけど、それは、まあファンとしてですね。
― その頃はファンとして水木さんのところに出入りしていたんですね。
そうです。当時水木ファンはそれほどいないようでした。水木宅を訪ねるとテレビドラマとおんなじで、あの腐ったバナナがいつも出されてました。(笑)
― お読みになっていたのは『ガロ』以前の『忍法秘話』もリアルタイムに読まれていたんでしょうか?もっと遡れば貸本漫画を実際に借りて読んでいらっしゃった?
そうですね。『忍法秘話』は渋谷の大盛堂で新刊を購入してましたから。白土さんの『忍者武芸帳』とか、水木さんの『河童の三平』や『悪魔くん』は貸本屋で借りて読んでいました。

『ガロ』以前の『ガロ』―『忍法秘話』

― 水木さんや白土さんの貸本漫画を出版していた長井勝一さんが『ガロ』の前に『忍法秘話』を刊行しています。これはいわゆる貸本漫画になるんでしょうか?
いや、そうじゃないと思うんですね。きちんと新刊本の取次ぎ会社を通っていましたから。
― ただ、貸本屋さんにも出ていたんですね。
出てました。多分半分ほどは貸本屋さん向けに配本されていたと思うんです。
― 『忍法秘話』は奥付に発行年月日が入ってますよね。貸本漫画は通常、発行年月日は入れないということなので、不思議だったんです。
大手の取次ぎを通るからですね。発行年月の入ってないのは取次店が扱いませんからね。
― そうすると貸本と一般の新刊本と中間みたいな感じですね、流通としては。
そうですね。『ガロ』もそうですよ。『ガロ』は僕が入った頃、発行部数が1万部くらいで、最高時はその4〜5倍出てましたけど、貸本専門の問屋さんにその3分の1くらいは出してましたね。3,000部は貸し本屋さんにね。貸本専門の問屋さんに見本を持ってまわる仕事を実際に自分がやっていましたから。そのころそうした問屋さんが7軒くらいあったんです。
― それは都内に?
そうです。神田と上野を合わせて7、8軒ありました。
― 問屋さんは関西は関西のほうでもあったんでしょうか。
そうですね。東京の問屋さんが名古屋や大阪の問屋さんにまわすんでしょうね。
― 『忍法秘話』以外にも貸本屋さんだけでなく、新刊本として出されていたものはあったんでしょうか。
ありました。石森章太郎(石ノ森章太郎)さんとか藤子不二雄さんも出してたかな、赤塚さんのも出てましたね。
― いわゆる書き下ろし単行本と言っていいでしょうか。
『忍法秘話』は書き下ろし単行本ですね。
― ところで『忍法秘話』『ガロ』の編集形態ですけど、メインの作品があって二、三本の短編があってというパターンですよね。この形態というのは・・・。
貸本のいわゆる短篇誌からから来てるんですね。例えば、貸本漫画の『影』とか『街』とか『迷路』とか、『忍風』ですね。
― 関西の貸本漫画が発祥ですよね。さいとう・たかをさんなどの「劇画工房」の方たち。その方々が、そういった形式を作って・・・。
そうですね。当時は短編集って言ってますよね。
― それ以前の貸本は一作家一冊の形なんですね。
もともとは一人一冊の書き下ろしがほとんどでしたから。
― 短編集の形式が貸本としてヒットして、水木さんもそういう『影』とかのスタイルで貸本を編集されてますね。
そうですね。『少年戦記』とか『陸海空』などの短編集ですね。
― 『忍法秘話』もそのスタイルを取り入れていたわけですね。ただ、流通は貸本屋だけでなかった。
そうですね。貸本屋さんだけだと、当時の発行部数は1,500部から2,000部くらいなんですね。1960年をすぎると、もう下降気味ですから、1,500部前後だとちょっときついというのがあるんでしょうね。もうちょっと商売としてちゃんとやりたいと思ったんでしょう。それで大手取次ぎを通さなきゃならなかった。

貸本漫画から漫画雑誌へ―流通革命?

― 『ガロ』は雑誌ということですが、『忍法秘話』と見比べても違いってほとんどハードカバーかそうじゃないかってことしかないですよね。
そうですよね。
― 雑誌の形態を採ったというのは、つまり雑誌として流通させようというのは・・・。
それも白土さんの意向だと思うんです。よりたくさんの人に読んでもらいたいということではないですか。『忍法秘話』でも3,000部くらいだと思うんです。3,000部いってないかもしれない、2,500部くらいでしょうか。白土さんは「カムイ伝」を始めるにあたって“万”の読者がほしかったんでしょうね。そうすると雑誌という形態しかないということでしょうね。
― ただ貸本業界も存続してましたから、そちらにも納めて大手取次ぎにも行って。
そうですね。最初は1万部から始まって、2万部、3万部へとのびていきましたよね。
― 貸本業界が最終的に駄目になるのはいつごろになるんでしょうか。
もっとあとの70年少し前ですか。全国貸本大会というのがあったんですよ。毎年、読者を集めて、といっても小中学生ですけどね。手塚治虫さんも白土さんも、水木さん、つげ義春さんもみんな壇上に上がって読者の質問に答えるんです。67年くらいまでやってましたからね。その頃までは多少の勢いがあったというか、手塚さんまで参加してますからね。小島剛夕さんも、さいとう・たかをさんも勢ぞろいですね。
― ところで、貸本以外に大手出版社の月刊少年雑誌がありますよね。
『少年クラブ』とか『少年』とか。貸本漫画は昭和でいうと28年、1953年に登場するんですが、それ以前は月刊誌しかないわけです。『少年マガジン』『少年サンデー』もないから。『少年クラブ』とか『少年』『おもしろブック』『冒険王』『少年画報』そういうのですよね。月刊雑誌が貸本漫画と並行して存在していました。
― 貸本漫画との読者層のすみわけとかあったんでしょうか。月刊雑誌は新刊の取次ぎのほうですから、貸本屋さんのほうに来るというのは・・・
月刊誌は貸本屋さんにも並んでました。貸本で子どもたちは両方読めたわけです。
― 貸本屋さんでも月刊雑誌は読めた状況なんですね。すると大手出版社も貸本屋さんの問屋さんに雑誌を出してたということでしょうか?
大手出版社も大手の取次ぎを経由させて神田の貸本専門の問屋さんに配本する。貸本屋さんも当時は全国で2万店以上ありましたから、無視できない。雑誌を10万部とか20万部とか出してても、その一割から二割くらいは貸本屋さんにまわることになりますから。